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福居夜話 第1話 お塚様


はじめに

 津島福居二丁目6番付近北斗住座9棟の西隣に「お塚様」と呼ばれる石板が祀られているのをご存知でしょうか。この石板は、福居付近にあったと伝えられる「津島ノ五ツぐろ(土偏+丸)」あるいは「塚ノ本ノ塚群」の中の一つ「お塚様古墳」で発掘された石室の天井石だと記録されています。
 どうして、古墳の天井石がここに祀られているのでしょうか、福居夜話の第1話は、そのわけにせまってみたいと思います。

福居の古墳群
 郷土史家永山卯三郎氏(1875-1963)によると福居付近には、「津島ノ五ツぐろ」と呼ばれる5基からなる古墳群がありました。その中の一つ「塚ノ本塚」(これが「お塚様古墳」と考えられますが。)は、古墳群の中心をなす前方後円墳で、他の4基は、円墳と考えられていました。これらの位置関係は、右図のとおりで、「塚ノ本塚」(1)の南に円墳が2つ(3, 4)、南東に一つ(2)、半田山の山腹に一つ(5)あったとされます。南東の古墳は、半田山の裾にあった島のような小さい山(成田山)の西脇にあったようですが、陸軍第17師団の施設造成のため「成田山取崩ノ時破壊シ盡サレ今痕跡ヲ止」めない状態でした。なお、(3)の古墳からは、鏡が出土したと記録されています。この円墳と見られていた古墳がこのたび岡山大学の野崎貴博氏が特定した前方後円墳(塚前古墳)です。
お塚様古墳発掘の経緯

 さて、お塚様古墳ですが、昭和五年五月に土地の所有者が土地を整地中に石室を発見し、人骨をはじめ出土品が続々発掘されたことから、その存在が注目されるようになりました。その時の様子を当時の新聞が伝えています。

津島で古墳を發堀 人骨、刀など續々現る 驚いてその筋へ届出づ
 十三日午前八時ころ岡山市上出石三〇長瀬哲郎が自己所有の市内津島字土生の荒蕪地を整地中、小丘に古墳の埋まってゐるのを発見 その中から人骨、甲冑、刀、鉾、曲玉、鏡など續々現れたので大いに驚き其旨其筋へ届出たがなほ発掘中である。」(「山陽新報」昭和五年五月十五日)
*「長瀬」は「長迫」の間違いか。

上記新聞記事の出土品の写真

 ここでは、発掘の事実だけが記述されていますが、付近の住民の反応は少々違っていたようです。発掘から25年程後(1954)になりますが、近藤義郎氏が近所の媼から聞き取った話が紹介されています。

 発掘された石室の「中には朱があざやかに塗られてあった。当時附近の人々が火の玉が出たとウワサしたほどの鮮明さであった」。出土品の一部は「郷土館(戦災焼失)に納め、他の一部は、その後不幸なことが頻発するために、一括してそうめん箱に入れて、付近の山腹に祀った。尚今に至るまで…年二回神主をよび、供養し心を慰めているという。」

 

 「不幸なこと」とはどのようなことだったのか、今では確かめようもありませんが、何か畏敬の念を抱かせるような出来事が続いたことから、発掘の関係者や付近の人々が出土品を箱に納めて山腹に埋めてお祀りをし、被葬者を供養するようになったことのようです。一方、時期が前後しますが、『岡山市史』(昭和11年刊)には、次のように記録されています。

 「天井石六個存ス
内、四個ハ遺址ニ散在ス
二個ハ西北方一丁許ノ所ニ立テテソノ下ニ發堀ノ骨片鉄片ヲ歛ム」

 

 上の二つの記述と合わせると、出土品の一部「骨片鉄片」を入れたそうめん箱を地中に埋め、その上に六個あった天井石のうち二個を立てて祀ったということのようです。これが「お塚様」のはじまりと考えられます。そして、その場所は、お塚様古墳から西北方向に一丁(109m)ばかりの所でした。

お塚様古墳はどんな古墳だったか

(1)大きさ
 残念ながら、古墳が壊されてしまったことと、しっかりした調査がなされなかったために、大きさも確定していません。『岡山市史』(昭和11年刊)では、舊形として、全長22間(39.6m)、後円部直径18間(32.4m)、前方部行11間(19.8m)とあります。後円部の直径に比べて、前方部が短いので、いわゆる帆立貝形古墳であったことが想定されます。昭和29年に調査をした近藤義郎氏は、その時点で「現存全長約30m、後円部の現存約17m(復原すれば18, 9m前後であろうか)」と報告しており、以後大きさとしては、この数字を引用するケースが多いようですが、これは既に古墳の三分の一ほどが失われた時点での現存部分だということに注意しておく必要があります。

(2)出土品と被葬者
 出土品として、人骨、鏡、甲冑、鉾、剣、直刀、曲玉があったと報じられています。しかし、やはりしっかりした調査がなされたとはいえず、報告によって数や大きさに違いが見受けられます。例えば、出土した鏡の大きさについて、永山氏は、4寸7分(14.1cm)と報告していますが、一方、近藤氏は、6寸〜7寸(18cm〜21cm)としている、などです。出土品に武具や武器が多く含まれているのは、帆立貝形古墳の特徴の一つといわれ、そのことから被葬者は「武装集団のリーダー的性格の」人物だったと想定できるかもしれません。

(3)古墳があった場所
 古墳は消滅してしまっていますが、古墳があった場所の地番が永山卯三郎氏によって「津島字伯父奥2319番地」と記録されています。古い登記簿で確認すると、確かに「岡山市津島字伯父奥弐千参百拾九番 一 山林 弐畝拾六歩」という記録があります。ただし、上記の古墳の大きさを考えると、この地番だけでなく、周辺の地番にも跨っていたことが想定されます。
 「伯父奥」という小字が現在のどの辺りかは、確認ができていませんが、地番から古墳の場所は、北斗住座の津島福居二丁目8番付近だったと思われます。

(4)古墳が造られた時代
 近藤氏は、出土品からお塚様古墳の時代を「おそらく中期後葉にあたるものと考えられる」としています。だいたい五世紀の後半にあたります。

お塚様古墳の消滅

 昭和29年古墳のあった場所に、市営住宅を建設することが決まります。現在の北斗住座です。当時の新聞は、「市営住宅建設で取り壊す 津島福居団地の古墳」という見出しを付して次のように報じています。

 「今年度の市営住宅建設地、津島福居団地の起工式は十一日に行われ、直ちに着工しているが、敷地内にある中期後葉とみられる前方後円墳がいよいよとりこわされることになった。これは団地に市営住宅が建築されることになったので昨年十月二十日、市教育委員会、岡山平野研究会によって調査したが、公共事業をさまたげてまで残すほどの価値のないことが判り昨年十一月二十四日、文部省文化財保護委員会から取り壊しの許可もあったので調査しながらとりこわすことになったもの。
 十二日は岡北中学長光教諭、市教委社会教育課関係者らで廃棄前の撮影など終わり、工事の実行とともに掘り起こされているが、何か発掘された場合は警察へ連絡することになっている。」(山陽新聞 昭和三十年一月十五日)

新聞記事の写真 昭和30年当時のお塚様古墳

 こうして、お塚様古墳は、跡形もなく消滅することになりました。では、「お塚様」はどうされたのでしょうか。それについては、こんな話も残っています。

 石棺を10m余り上にお祀りするために、作業員たちが足元の悪い狭い道を、鉄のクサリで担ぎ上げていた時、クサリが切れて大怪我をした、『上がりたくない、この場所に祀ってほしい』お告げがあったとか

 「この場所」とはどこのことだったのか、最初に祀った所なのか、移動している際にクサリが切れた所なのか、前者の可能性があると思われます。現在のお塚様には、花立、水鉢、香炉がそなえられ、六つの天井石もここに集められています。記録はありませんが、住宅建設を期に、散在していた天井石を一箇所にまとめたことは十分考えられることです。水鉢に「奉納 未之年」と銘がありますので、昭和30年に一連の整備が行われたと考えられます。

 お塚様では、今も年に一度、天津神社の秋祭りの折に、宮司に祝詞をあげていただき、お祀りをしています。今はもう無いお塚様古墳やお塚様の由来などに思いを馳せて、お参りをしてみてはいかがでしょうか。(令和5年3月7日 大塚茂、早瀬均)

【参考文献】
(1) 岡山市役所編. 岡山市史. 第1巻. 1936.
(2) 近藤義郎. 岡山市津島の俗称「おつか」と称する前方後円墳についての調査の概略報告. 古代吉備, 第10集, 1988, p.64-67.
(3) 永山卯三郎編著. 岡山県通史, 上巻. 岡山県, 1930.
(4) 大塚初重. 古墳と被葬者の謎にせまる. 祥伝社, 2012.


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